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泉南市域をとおる熊野街道(太線)
泉南市内の熊野街道沿いには現在も多数の文化財が残されています。 みなさんもぜひ現地を訪れて歴史の息吹を感じて下さい。
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厩戸王子には1201(建仁元)年10月7日、後鳥羽上皇が参られ、信達宿の厩戸御所に宿泊されたことが記録に残っています。また、厩戸王子は、馬戸王子・馬留王子・筆王子とも呼ばれていたようです。
白鳳時代(約1350年前)に建てられた古代寺院で、奈良県法隆寺と同じ建物配置をとっていたことが発掘調査で判明しました。また当時、海会寺で使われていた軒丸瓦は、大和・百済大寺、摂津・四天王寺と同じ笵型(木製の型)でつくられていました。このことから、海会寺は当時の政治の中心と強い結びつきがあったことが考えられます。
また、すぐ隣から海会寺を建てた豪族の居館(屋敷)跡が見つかっています。この屋敷は、当時の一般的な家屋に比べ5倍もの規模をもち、7世紀初めから9世紀代までに幾度か建替えられながら、国衙政庁(昔の地方行政庁)のように整然と企画・配置されていました。このことから、有力豪族が何世代かにわたり、勢力を強めながらこの地を治めていたことが分かります。 海会寺跡からみつかった瓦などの出土遺物は、海会寺跡の向いにある古代史博物館で展示されています。
本陣は江戸時代、街道の宿場に置かれた大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊所です。その起源は1363(正平18・貞治2)年、室町幕府2代将軍足利義詮が上洛の時、その旅宿を本陣と称して宿札を掲げたのに始まると考えられています。おもに街道の山越え・渡し・分岐点に設けられ、特に参勤交代の往復にその機能を発揮しました。 本市の熊野街道沿いには、市場の本陣のほか岡中・中小路・北野に臨時宿泊所が設けられ、紀州公の参勤交代路として幕末まで続いていましたが、明治維新で幕府・大名の保護を失い、1870(明治3)年廃止されました。
熊野街道沿いの信達大苗代、市場、牧野地区の家並みは、現在も「信達宿」として栄えた当時の面影を強く残しています。これらの地区に特徴的な建物は、図のように大きな妻入り建物が、妻を街道に向けて建ち並び、そのひとつひとつに「角屋(カドヤ)」と言われる、一段低い屋根を持つ建物が付属するものです。街道に沿って歩くと、低い直線的な屋根と、ひときわ高い三角屋根が、一定のリズムをもって立ちならんでいるように見えます。 この特徴ある建物が建ち並ぶ町並みは、もとは泉州一帯にみられる農家特有の間取りをもとに、発達したものとされています。しかし、これまでに知られる例としては、泉佐野・阪南の両市にごくわずか認められるのみで、この地区に集中しているほかには、ほとんど例を見ないものなのです。いわば「泉南信達宿」に独特な建築様式ともいえるでしょう。
街道沿いの町並み (大阪府教育委員会『熊野・紀州街道-論考編-』より引用)
岡中鎮守社のクスは、樹齢500年とも800年とも言われています。樹幹の周囲目通しは8.2m、根元12m、樹高30mで、地上3mの所で幹が三本に分かれています。枝が覆う面積は300平方メートル以上あります。 また、マキは一般に成長が遅く、直径1m近い規模は、府内では傑出したもので、同社のクスよりも更に古木であろうと言われています。
岡中鎮守社のクスは、樹齢500年とも800年とも言われています。樹幹の周囲目通しは8.2m、根元12m、樹高30mで、地上3mの所で幹が三本に分かれています。枝が覆う面積は300平方メートル以上あります。
また、マキは一般に成長が遅く、直径1m近い規模は、府内では傑出したもので、同社のクスよりも更に古木であろうと言われています。